退院後のQOLを支えたICT
2015年3月、1カ月ほどの入院の後、長岡さんはがん専門病院を退院して自宅療養をスタートし、山下氏に健康管理支援「よろず医療相談」を依頼した。これは月に1度、山下医師の診察を受けるというプログラム。がんという病気の性格上、病院での治療後も、副作用や再発、転移など心配事は尽きないが、手術後のQOLを支えるため、医師や医療関係者のサポートは欠かせない。長岡さんの場合は、食後に動悸、発汗、めまい、胃腸の不具合などが起こるダンピング症候群、食べ物がうまく飲み込めない嚥下機能の低下、空咳などの症状が出た。月に1回の診療所での診療では、こうした症状に対応した飲み薬の処方のほか、がん専門病院が実施した治療・検査結果の解説などのサポートを受けた。
その後、長岡さんはオンライン診療を試してみたいと思うようになり、2019年3月からは株式会社MICINのオンライン診療サービス「クロン」によるオンライン診療を併用することにした。これは医師と患者がビデオチャット機能を使って、遠隔診療を行うというもの。「それまでは月に1回、山下先生に会って色々なことを相談していたのですが、オンライン診療にすれば、時間短縮になると思ったのがきっかけです。退院から時間が経っても不安は残っているので、山下先生とは繋がっていたいが、なるべく時間を節約したいということです」。
実際にクロンによるオンライン診療を始めてみると「診療所への移動時間や診療所での待ち時間も削減されたほか、診療所内の緊迫した空気感から解放されたこと、テキストでのやり取りによって不明確なことがなくなったこと、テキストデータとして記録にも残るようになったこと、などの効果もあった」と長岡さんは語る。「ただ、クロンは(患者側からはメッセージを自由に投稿できないようになっており)非同期の情報共有力が弱い。そこで、私は思いついたことをメモ帳アプリに記録し、診察の何日か前になると、診療所に電話して相談項目を送る旨を伝え、(クリニック側で受信できるように準備してもらった上で)質問項目をクロンに貼り付けて送るということをやっていました」。※()内は編集部補足
思いついた時にその都度投稿できないところを改善して欲しいと山下氏に訴えたところ、山下氏からクロンのほかにメディカルケアステーション(以下MCS)も併用しましょうとの提案があり、2019年6月からMCSの使用を開始した。「患者が医師とコミュニケーションを取るときに、テキスト情報を医者と交換できる仕組みが、これまでは皆無だったといってよいので、それができるMCSは画期的なことだと思いました」。
MCSは、長岡さんががん専門病院で行った「付箋を使ったコミュニケーション」のデジタル版と言っていいだろう。しかも、付箋ではストレスが溜まったURLも容易に記載できるようになった。現在は、山下氏と山下氏の診療所の看護師、それに長岡さんの3名でグループを作り、MCS上で情報のやり取りをしているという。投稿する内容は、体調のほか、検査結果、自分の研究のこと、医療費のことなど様々で、思いついたことを何でも投稿している。その中には重要なことばかりでなく、あまり重要ではないことまで含まれているという。そのため、サブジェクトを作れたり、重要度のレベルを表示できるような機能や、未読か既読かが分かるような機能があれば、さらによいのではないかと話す。
また、MCSのグループにがん専門病院の主治医の参加については、「繋がれたらよいこともあると思いますが、大規模病院は医師の入れ替わりが少なくなく、実際私の主治医も他の病院へ移ってしまったので、現実的でないだろう」と指摘する。
医師と患者の新しいコミュニケーションを目指して
長岡さんは、2020年2月に治療開始から5年を迎える。5年間の経過観察期間中は本格的な研究は再開しないと決めているが、それ以降から研究を再開する予定だ。その際に、今回の経験を活かす意味で「患者の立場に立ったコミュニケーションの支援」を研究テーマにしてみたいと考えている。「私の研究は、お互いの情報量が違ったり、権力関係がある人など、非対称的な情報所有者のコミュニケーションが1つのテーマです。これまでは、組織の中での上司と部下のコミュニケーションとか、教員と学生のコミュニケーションなどを研究していたのですが、こうした関係は患者と医師の関係と共通するところがあると思います。こうした関係を見直し、患者と医師が対等なコミュニケーションをしていくにはどうすればいいかを研究してみたいと思っています」。
さらに、こうした医師とのコミュニケーションは、MCSならもっとスムーズにできるのではないかとも語る。「1カ月に一度診療所に行って、資料なしで、5分くらい診察するだけでは意味のあるコミュニケーションはできません。ビジネスで打ち合わせをする時は、資料を作って事前に情報を共有しますよね。医師と患者の診察も、初めにデータを共有して、問診した方が効率がいいはずです」。
MCSを使えば、患者が疑問に感じたことや不安なことを、事前に医師との間で共有することができ、その後、診察やオンライン診療を行えば短時間でも効率的なコミュニケーションができる。ただし、患者と医師の双方にデジタルのリテラシーが必要だとも長岡さんは指摘する。双方がツールを使いこなし、きちんと返信できなければ、双方にストレスが溜まる可能性もあるからだ。「でも、最初のうちは失敗してもいいから、いろいろ試してみるというスタンスのほうがいいでしょう。まずは、こうした経験を蓄積することが大切なのかなと思います」。
長岡さんは最後に、今回の治療経験をふり返って次のように語ってくれた。「正直、がんになっていいことなんてないのですが、私は研究者なので、研究の範囲が広がったのは、キャンサーギフト(がんからの贈り物)だと思いますし、こうした医療の分野で社会貢献できることがあればやりたいと考えています。また、医師が意地悪なわけじゃないということも分かりました。コミュニケ—ションのとり方が独特なだけだと思います。私もかなり失礼な質問の仕方をしたと思いますが、全然怒らなかったですから。今後、患者と医師の対等なコミュニケーションがMCSのようなツールを通じて実現できたらいいなと思いますし、そのために協力していきたいと考えています」。
取材・文/豊岡昭彦、撮影/池野慎太郎
※今回の取材に際し、長岡氏は治療を受けたがん専門病院の名前の公表を希望されていましたが(他メディアや研究会では具体的病院名を公表されています)、病院側の掲載許可が得られなかったため、発行側の判断により病院名を伏せさせていただきました。